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伏見・淀周辺

Anthony Bourdain

伏見奉行所跡

旧幕府軍が宿陣

 鳥羽・伏見の戦いで会津藩・新選組を中心とした旧幕府軍が布陣。薩摩軍本陣は大通りを隔てた御香宮神社に布陣。

 伏見奉行所に陣取る会津藩や新選組を中心とす旧幕府軍1500人と、奉行所の北隣の御香宮に陣取る薩摩軍500人との間で戦闘が開始された。数の上では有利だったが、刀槍を中心とした旧幕府軍の装備では、銃火器を中心とした薩摩軍相手にまともな戦いにはならず、高所至近砲撃を受け、奉行所は炎上してしまう。そのため、奉行所は現存しておらず、桃陵団地の入り口付近に石碑がひっそりと佇んでいる。

 

 伏見奉行所跡碑近くの料亭・魚三楼の出格子には今も弾痕も残っている。

御香宮神社

薩摩藩の本陣

 平安時代、この境内から良い香りの水が湧き出たので、清和天皇より名前を賜ったことで有名な神社。

鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩の本営が置かれた。薩摩藩は神社周辺の高台に砲兵を布陣し、坂下の伏見奉行所を砲撃した。

 当初、幕府側がここに本営を置く予定で、徳川氏陣営と書いた木札を門に掲げておいたが、これを見た御香宮の宮司は尊王贔屓だったため、直ちにこれを御所に知らせた。薩摩藩では事の重要性に気づき、急ぎ吉井孝助を派遣して御香宮に陣を構えさせ、旧幕府軍の布陣を防いだ。こうして後の戦いを有利に導く基礎を築く事が出来たというエピソードがある。

 境内には、当時の戦跡を表す石碑が立っている。

 

 

御香宮神社HP→ http://www.kyoto.zaq.ne.jp/gokounomiya/index.htm

淀城跡

旧幕府軍の入場を拒否

 幕末期、淀城は老中・稲葉正邦の居城であり、佐幕派であった。そのため伏見より撤退していた旧幕府軍は淀城に入場し、体勢を整えようとしたが、淀城はこれを拒否。旧幕府軍はさらなる撤退を余儀なくされた。

 現在は城本丸の石垣と内堀の一部は公園となって、京阪淀駅前にただずんでいる。


 

千両松古戦場跡

井上源三郎 死所  

 伏見から撤退した旧幕府軍は、淀千両松と呼ばれるこの湿地帯に布陣し、追撃してくる官軍を迎え撃った。激しい白兵戦となったが官軍に敗北。新選組も奮闘したが、試衛館以来の仲間である六番組組長の井上源三郎を失うことととなる。

 明治30年(1897)に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の慰霊碑が建立された。現在のものは昭和45年(1970)年に新たに建てられた。京都競馬場の高架橋の東脇に佇んでいる。
 

 

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