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壬生周辺

Anthony Bourdain

 八木邸

初めての屯所

 八木家は壬生村きっての旧家でかつて壬生郷士(壬生住人士)の長老をつとめていた。

 幕末には上洛した近藤勇、土方歳三たちが初めて屯所を構えた場所。当時の御当主の三男・八木為三郎氏によれば、新選組結成時、八木家に掲げられた「松平肥後守御預新撰組宿」の表札を、沖田総司や原田佐之助が眺めて喜んでいたとか。

 また、初代局長・芹沢鴨の暗殺事件が行われた場所でもある。暗殺時に芹沢鴨がつまずいて倒れた机やそのときの刀傷などが残っている。

 

 ガイドによる屋敷解説(抹茶・屯所餅付き1000円)が常時行われている。

一角には和菓子店 京都鶴屋 鶴壽庵があり、京野菜・壬生菜を刻み入れた餅で大納言小豆餡をつつんだ屯所餅が名物。

 

 

八木家HP→ http://www.mibu-yagike.jp/index.html

前川邸

もうひとつの屯所

 文久3年より八木邸・南部邸(現存していない)とともに屯所として使用された屋敷。

 前川邸の幕末当時の面影を残す風格のある長屋門、山南敬助が切腹した間、古高俊太郎の拷問が行われた東の蔵などが残っている。また、新選組局長近藤勇が書いたといわれる一枚の雨戸に残された落書きも残っている。表面には会津新選組隊長近藤勇、裏面には大きな文字で、勤勉 努力 活動 発展と墨書されている。

 

 現在は「田野製袋所」となっており、一般公開されていないが、土日祝のみ土間までが一般に公開され、前川邸の絵葉書や新選組関連のお土産、オリジナルグッズ、模造刀、書籍などが販売されている。

 

 

新選組屯所・旧前川邸HP→ http://kyu-maekawatei.com/

壬生寺

隊士たちの稽古場

 屯所にほど近い場所にある寺で、新選組は境内を兵法調達場として武芸や大砲の訓練を行っていた。

 また、一番隊組長・沖田総司が境内で子供達を集めて遊んだり、近藤勇をはじめ隊士が壬生狂言を観賞したり、新選組が力士を呼んで相撲興行を壬生寺で企画し、寺の放生池の魚やすっぼんを採って料理し、力士に振る舞ったという、おもしろい逸話も多く残っている。

 

 境内の壬生塚には新選組局長・近藤 勇の胸像と遺髪塔、新選組屯所で暗殺された隊士・芹沢鴨と平山五郎の墓、勘定方・河合耆三郎の墓の他、隊士7名の合祀墓がある。

 毎年7月16日には池田屋騒動の日とし、「新選組隊土等慰霊供養祭」がここで行われる。当日は全国各地から新選組を参詣者が数多く訪れ、近藤勇の胸像前で慰霊法要が行われた後、有志による剣技や詩吟の披露がある。

 

 

壬生寺HP→ http://www.mibudera.com/

 

新徳寺

新選組が生まれた場所

 尊皇攘夷の志をもつ出羽国庄内藩出身の清河八郎は、将軍家茂の上洛にさいし将軍を警護するための「浪士組」を結成し、230名余を率いて京都にのぼった。京都到着の夜、清河は新徳禅寺に集合した浪士組の面々に対し、「我々が真に為すべきは、(上洛する将軍の警護ではなく)江戸に戻って攘夷運動に身を投ずることである」と本堂で尊攘の大演説を行った。

 それに反発した芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らは京都に残留し、24名が「浪士組」を結成、のちの新選組の前身となった。

 

 

光縁寺

山南敬助が眠る場所

 光縁寺は、慶長18年(1623)頃に創建された浄土宗の寺で、知恩院の末寺にあたります。

 前川邸から歩いて5分と近い場所にあり、当時の光縁寺の門前に新撰組の馬小屋があった。また、この寺と山南啓介の紋所が同じ「丸に右離れ三つ葉立葵」であったことと、山南と当時の住職 良誉上人と同い年だったことから親交が深まり、亡くなった隊士の埋葬を依頼したのではないかと言われている。また、山南自身も新選組を脱走して、旧前川邸に戻されて切腹し、光縁寺に埋葬された。平成19年から毎年一回、その山南敬助を弔う『山南忌』が旧前川邸で催されるようになった。

 

 この寺の過去帳には、隊士のほか新選組に縁のある人を含めて28人の記載があり、墓地には四基の墓が現存している。拝観料ではなく、供養料(100円)を納めると、山南敬介らのお墓参りができる。中には新選組に関する書籍が多数収蔵されており、新選組に関する書籍の閲覧に来る人も多いそうだ。

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