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金戒光明寺・祇園周辺

金戒光明寺

会津藩の本陣がおかれた

 金戒光明寺は、浄土宗の大本山の1つで、地元ではくろ谷さんの愛称で親しまれている。

御所まで約2㎞と京都の要所にほど近いため、京都守護職・会津藩の本拠地が置かれた。藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして、新選組をその支配下に置き治安の維持に当たらせた。

ここ黒谷の地で、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を弔っている。なお、このころ中間として出入りしていた侠客が会津小鉄こと上坂仙吉である。

戊辰戦争で亡くなった会津藩士墓地もここにある。会津より約1000人の規模で駐在した。その後、ここから現京都府庁の地にあった「京都守護職」に移る。
ここでは新撰組の御前試合も行われた。「新撰組」の名はここで会津藩より会津ゆかりの名として与えられた。 そして壬生浪士隊から「会津藩お預り・新撰組」となった

 

 

 

浄土宗大本山・くろ谷 金戒光明寺HP→ http://www.kurodani.jp/

祇園会所跡

池田屋事件前の新選組集合場所

 池田屋攻め入り直前、屯所を各々に出た新選組隊士は祇園会所に集合し三条へ向かった。正確な位置は不明だが、祇園石段下にあったといわれている。

 壬生の屯所から祇園会所までは四条通を真直ぐ東へ約3100メートル余り、徒歩で約40分程あれば到着できる。ここで身支度を整え、捜索と捕縛についての打合せを行い会津藩と合同して出動する予定だったが会津藩が遅れたため、新選組のみで出動。隊を2隊に別け、一隊は近藤が率いる6人、もう一隊は土方が率いる24人で出動した。諸説あるが、この時点では浪士の会合場所は判明しておらず、近藤隊は鴨川の西側、土方隊は鴨川の東側を重点に宿改めを実施しながら捜索したという説が有力だ。

 

祇園北林跡

新選組が相撲興業を警備

 壬生浪士組時代、力士との乱闘事件の和解策として、文久3年(1863)に、京相撲と大阪相撲の合同相撲興業が行われた場所。興行は8月7日から7日間に渡り、その間隊士が警備にあたって、京都市民に好感を与える事に成功した。壬生浪士組のおかげで無事に興業が終わったため、壬生寺でもお礼興業が行われ、隊士たちが引き札(チラシ)を貼って集客したという。
 当時は八坂神社の境内だったが、明治になり円山公園として整備され、現在では市民の憩いの場となっている。

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