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河原町周辺

池田屋

池田屋事件の跡地

居酒屋、海鮮茶屋池田屋はなの舞の店先に石碑が佇んでいる。

失地回復を狙う尊王攘夷派の京都焼き討ち計画を察知した新選組は、蜜議中の池田屋を御用改め。宮部鼎蔵らを倒し、20余名を捕縛した。

 

海鮮茶屋池田屋はなの舞では、池田屋騒動の舞台となった旅籠池田屋を再現。池田屋の代名詞の名物8メートルの大階段や旅籠池田屋の雰囲気を再現した帳場や、隊士達の刀も展示。

 

 

海鮮茶屋池田屋はなの舞HP→http://www.chimney.co.jp/shop/kansai/0633ikedaya/

三条大橋

擬宝珠の刀傷跡

 

橋の北側と南側の2か所(西から数えて2つめの擬宝珠)に、池田屋事件で付いたとされる刀傷が現存する。

 

また、三条大橋は三条制札事件の跡地にもなっている。

三条制札事件とは、京都の治安維持を行っていた新選組が三条大橋西詰の制札を引き抜こうとした土佐藩士8名を襲撃、捕縛した事件である。

 

新撰組局長である近藤勇が、板橋刑場で刑に処せられたあと、首が運ばれ三条河原で晒し首となった場所でもある。

 

古高俊太郎邸跡地

枡屋事件の跡地

四条大橋よりほど近い場所にある古高俊太郎の居住地。

古高俊太郎は近江出身の寺侍であったが、小道具屋の枡屋喜衛門を名乗り、宮部鼎蔵ら京に潜伏する土佐勤王党や長州藩の勤王志士と有栖川宮との間をつなぐなど長州間者の大元締として情報活動と武器調達にあたっていた。

元治元年6月5日(1864年7月8日)、枡屋は新選組に踏み込まれ古高俊太郎は捕縛される。武器弾薬を押収され、諸藩浪士との書簡や血判書が発見された。

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