京都駅・島原周辺
Anthony Bourdain
西本願寺
新選組 二番目の屯所
新選組は屯所が手狭になったことと、勤王は牽制のため、慶応元年(1865)に屯所を西本願寺の北集会所と太鼓楼に移した。その後約2年間を過ごすが、境内で大砲の訓練や拷問、切腹などを行ったため、参拝客が途絶えるほどだったという。
現在、西本願寺には太鼓楼のみが残っている状態である。
新選組隊士たちが過ごした北集会所は西本願寺と縁深い兵庫県姫路市の亀山本徳寺に移築されている。現在の龍谷大学に移築される予定だったが、明治元年に本徳寺の本堂が焼失したために材木を亀山本徳寺再建用に使い、本堂が1873年に再建されている。
現在も北側の柱2本に多数の刀傷が残っている。
西本願寺HP→ http://www.hongwanji.or.jp/
亀山御坊本徳寺HP→ http://www1.winknet.ne.jp/~k-goboh/
不動堂村 屯所跡
京都最後の屯所
慶応3年(1867)6月、西本願寺の要望により不動堂村に屯所を移した。広さが三千坪あったとされ、表門、高塀、幹部の部屋、平隊士の部屋、馬屋などを備えた大名屋敷のような広大な敷地で、大風呂は一度に30人が入れるほど広かったそうだ。この屯所の建設費や移転費は、すべて前の屯所が置かれていた西本願寺が負担したといわれている。
しかし、半年で新選組が大阪に下り、その後、建て壊されたため、正確な場所は特定されておらず、複数存在する。
リーガロイヤルホテル京都の入り口の植栽に、近藤勇の歌碑と共に石碑が建てられている。また、その場所から東側の西洞院通塩小路の場所、すなわちホテル瑞鳳閣の前にも不動堂屯所跡を示す史蹟表示板がある。
島原 大門
新選組も通った花街の入り口
島原は最初の幕府公認の格式高い花街。寛永18年(1641)六条三筋町より移転され、その急な移転騒動を、直前にあった島原の乱になぞらえ島原と呼ばれるようになった。
島原大門は、島原の東入口にあたる大門で、京都市の登録有形文化財にしていされている。
現在の島原大門は慶応3年(1867)に再建されたもの。
角屋 もてなしの文化美術館
唯一現存する揚屋建築
角屋は現在に残る唯一の揚屋建築で、美術館となっている。揚屋とは酒宴の場所を提供し、現在の高級料亭に近い。また文化的な活動の場でもあり、多くの藩士や文化人が出入りしていた。
壬生の屯所からも近いため、新選組も多用した。特に芹沢鴨との関わり合いは深く、文久3年(1863)6月ここで暴挙をはたらき、その際に出来た刀傷が今でも残っている。また、芹沢鴨が八木邸で暗殺される直前に、松の間で酒宴を開いている。入り口と二階の刀傷、近藤勇が愛用した二階の青貝の間、芹沢鴨が斬りつけようとして暴れた臥龍の松などが残っている。
2階の特別公開の座敷(青貝・扇の間他)は事前の電話予約が必要。
料金は入場料の他に別途必要。
角屋もてなしの文化美術館HP→ http://www16.ocn.ne.jp/~sumiyaho/